憐憫

 その雑貨屋は、瀟洒な街の一角にあった。風が吹けば忽ちに崩れてしまいそうなほど古く寂れたその外見は、洋風の小洒落た家々が軒を連ねる中で、一際浮いた存在だった。
 このボロボロの店が未だ潰れずに営業しているのは、商品が並大抵の物ではないからだ。何十万、何千万の価値をもつ家具や置物は、薄汚れたガラス越しでも圧倒的な存在感を放っている。
 ガラス越しからは、あらゆる商品と並んで、レジカウンターにいる店主が見える。
 小綺麗なスーツを着こなし、年齢を感じさせない整った髪型、顔立ちの品の良い老人だ。

 ある日、その店に少年が訪れた。
 店は少年の通学路に面していて、彼は道を通る度にガラス越しに店内を眺めていた。
 それを知っていた店主は、少年が入ってくるなり声をかけた。

「あのヴァイオリンが気になるのかい?」

 少年は照れたように頷く。
 壁にかけられたヴァイオリンは、店内に所狭しと置かれた商品の中でも、一際輝いていた。楽器を知らない素人が見ても、明らかに価値があると気づくだろうと言えるほど、それは美しく、魅力的だった。

 恐る恐る価値を尋ねた少年に、店主は申し訳なさそうに応えた。分かりきったことであったが、少年のお小遣いでは到底手の届く値段ではない。
 とぼとぼと店を後にする少年を見て、店主は思案していた。

 少年は新聞配達のアルバイトを始めた。
 朝と夕、少年の身体には大きすぎる自転車を漕ぎ、近所を駆け回る。
 骨董屋の前を通る時は、店主に挨拶をした。
 少年の会釈に、店内から手を振って応える。そして、少年のヴァイオリンに掛ける情熱に感動していた。

 それから少年は高校生になり、アルバイトを始めた。新聞配達だけでは、何年経っても買えそうに無いからだ。

「隣町に、給料の良いバイトがあるんだ。そこで働くから、しばらくこのお店には来れない。でも、お金を貯めて必ず買うから、だから、僕がまた来るまでヴァイオリンをとっておいてほしい」



 少年を見なくなって少し経ったある日、店に一人の男性が訪れた。
 彼は街でも有名な富豪で、この店に来るのも数回目。商品を購入した事もあり、店主とは顔馴染みだ。
 彼は早速ヴァイオリンに目を付けた。

「あれは素晴らしい一品だね、ぜひとも買い取りたい」店主の困惑した表情を見て、更に問う。「あれは売り物ではないのか? それなら、希望の金額を言ってくれ。幾らでも出そう」



 それから幾度も季節は巡り、ようやく少年が現れた。
 すっかり大人と相違ないほど成長した彼は、店に入るなりせわしなく店中を見渡す。そして、値段を聞いたときと同じ、悲しそうな表情をした。店内の何処にもヴァイオリンが見当たらなかったからだ。
 青年が口を開く前に、店主は店の奥へ行ってしまった。
 まさか、もう買われてしまったのか。
 あれほどの品だ。これほど時が経ってしまったし、誰か買い手が現れたのだろうか。
 仕方がないと肩を落としたとき、店主が奥から出て来た。その腕には、あの日から時が止まっていたかのように、埃一つ被っていない、鏡のように磨かれ輝くヴァイオリンが抱えられている。
 あの、富豪が訪れた日以来、誰にも買われないようにと店の奥に仕舞っておいたのだった。
 少年は感動の余りか眼には涙が浮かび、しかし笑顔になっていた。

 そして、店主がヴァイオリンを手渡そうとした、その時。
 ――バキッ

 店主はヴァイオリンをへし折った。
 呆然とする眼前を、木の粉が舞う。
 その向こう、笑顔の店主の声がした。

「これが、私の愉しみ」